あの日からのこと その12012/01/09

まとめて書こうと思っていて
ところどころに書き散らし
なかなか一つに書けなかったこと

私は1991年にkarakでデビューしてからずっと
プロフィールに
「自然からもらったものだけで満ち足りることの
大切さを歌いたい」
と書いてきました。
その、私の歌詩のおおもとになったことと
そして震災の、あの日からのこと、です。
うまく書けないかもしれないから
その1、にしました。


80年代後半、反原発運動がさかんでした。
「DAYS JAPAN」を始めとする雑誌では
盛んに特集が組まれ
「朝まで生テレビ」などでも
盛んに討論が繰り広げられていました。
身内が自腹で「まだ間に合うのなら」を百冊買って
友人知人に配り、「反原発自宅闘争」をしていました。
今と同じく
電力会社と政界や財界との癒着という構造を倒そうと
あちこちで反原発集会が開かれ私も何度か参加しました。

でもそこでの「運動」は
学生運動を経た方々が中心となっているような印象で
時に「三里塚」などののぼりも見受けられました。
ハチマキをし、集会の最後に拳を突き上げて
「私たちの力で原発を停めましょう、おー」
という「運動」然としたものに
私は激しく違和感を憶えました。

海外の反原発住民運動のリーダーを招いた集会でも
参加者とのディスカッションでは
長々とした自己紹介に始まり、私的な訴えばかりで
どうにも発展的とは思えない内容に
失望したこともあります。
(現在の、実際の原発被害体験を話して
知ってもらうということとは別です、顕示欲を感じました)
集会からはいつもがっかりして帰るのでした。

そして思ったことは、
私はこの思いを作品にむけるしかないな
ということでした。
やりかたはいろいろあるだろう、と。
もちろんできる限り署名したり
といった行動はしていましたよ。

karakのファーストアルバム「silent days」のテーマは
核戦争後の世界、でした。
これは当時インタヴューでも何度か言っていましたが
タルコフスキーの「ストーカー」
「サクリファイス」などの影響も大いにありました。
アルバム最後の曲「老人と船」の歌詩は
今そのまま、福島の海の出来事のようです。


先日、地元の某テレビ局勤務の友人が
震災一周年記念(?)のイベントが
目白押しだ、と暗い声で言いました。
fukushimaやフクシマ、と
アルファベットヤカタカナ表記を冠したイベントが
きっとたくさん開かれるでしょう。

Twitterでも書いたのですが、私の出身地は福島であって
fukushimaでもフクシマでもありません。
もちろん善意には違いないとは思うのですが
私はそれらには参加する気持ちにはなれません。

音楽で得たお金を福島県の災害対策本部に寄付する。
これまでと同じ姿勢で、同じ気持で誠実に作品を作る。
そしてそれを続ける。

それが私にできることです。


現在の反原発運動は80年代とは確実に違うと思います。
情報の量がまず違います。
しかし「反原発」の名のもとに
首を傾げる様な情報や動きもあり
ネットの力もあって80年代とはまた違う危なさも感じます。

はっきりしておきますけど、私は
原発反対、大反対、です。
めざせ脱原発です。

あの日
以前から原発事故の恐ろしさを
少しでも想像していた人にとっては
まさに恐れていたこと
まさか、あの最悪のケースのシナリオ通り
地震、事故・・

Macに流れるニュースに向かって
「うわあ実際に起こってしまったなんて!!」
と叫んでしまいました。
コドモ(中3)が
「どういうこと?」というので
反原発運動のことなどを話しました。

そしてコドモから
「(80年代の運動は)失敗だったってことじゃん
ちゃんとやってれば原発事故もなかったのに」
と言われたときの胸の塞がる思いは
いつまでも消えないのです。

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