稽古佳境、そして燐光群2012/03/20

私は映画でも演劇でもコンサートでも、
自分にとって興味あるものに出会うと、
どんどん自分の脳味噌の中を旅してしまうクセがあり、
その作品が衝撃的にスバラシイほど、
作品そのものより、
そこから受けた自分の印象を眺める結果になる、
というようなことがある
(なので平常心でもう一回見たくなる)。

昨日から始まった燐光群の
「ALL UNDER THE WORLD」は、
見るなり自分の脳内を彷徨してしまうこととなった。
演劇にストーリーやカタルシスを追い求める人は
「なんじゃこりゃ?」というように思えるかもしれない。
でも私にはドツボにオオウケ。
ミニマル・ミュージックが役者の体で立ち上がった空間、
マサシク「自分の印象をつなげて見る」作品ではないですか。

この作品のなかで歌われる歌の
指導をしたわけだけれど、
「ココニオイデ」の稽古中でクタクタで睡眠不足で、
もうタイヘン、という時だったのに、
一瞬で疲れが吹っ飛びました、ってくらい面白かった。
喉を労るのも忘れてみんなと歌いまくったよ。

というわけで大変マジでおすすめです。
ALL UNDER THE WORLD
http://rinkogun.com/Next.html

そして「ココニオイデ」なんですけど、
今日は稽古場に吉良君がきて、
いろいろ録音したり音響の相談に乗ってくれたり。
zabadakのアノ曲が
テヨのミックスでどえりゃあものになっていて、
どえりゃあ驚く吉良君であった。
稽古日数もあとわずか!
ぜひ見に来てくださいまし。
ココニオイデ
http://next.an-heiwa.net/?eid=1185172

「科学と神秘のあいだ」意味づけをめぐる、ぐるぐる2012/01/30

科学と神秘のあいだ
物理学者・菊池誠先生の
「科学と神秘のあいだ」を読みました。

菊池先生、キクマコ先生は
難波弘之さんのSFつながりのお友だちで
大阪でzabadakがコンサートをしたときに
ご紹介いただきました。

「科学と神秘のあいだ」は、難しいことも
まるで隣にいるように話してくださっているようで
こちらは「うんうん」と
頷いてしまうよう。
これまで垣間見もしなかったような分野と
ロックなハナシが交錯する
とても面白い本なのです。

震災〜原発事故のあとに起こっている
様々な問題も予見していたかのようです。
「こーゆーのにはひっかからないよーに」
って、もう先生は言ってたじゃん!!
って。

未読の方はぜひお読みください。
(実はテルミンに興味を持ってしまう本でもある)

で、私がどきんとしたのは
昨日のブログ
http://koko.asablo.jp/blog/2012/01/29/6310662
とも関係があるのですが
「希望は持つもので、事実は受け入れるものだから」
という一文でした。

事実は受け入れるもの。

ヤンの芝居のなかの
チェーホフの言葉で勇気づけられた私でしたが
その裏で
その難しさに気がついていました。
未整理で意味づけをなしていない事実を
脳味噌、いやココロ?にあるがままにしておくこと、
それには強靭な心が必要かも。

意味づけせずに置くことと、
受け入れることってちがう。

事実を受け入れるためは
「意味づけ」や
「折り合い」や
「落としどころ」
まあ、ヒトはいろんなファイル名で
脳内に「置き場所」を作っていくのでしょう。
でも「意味づけ」を拒否した
私の脳味噌デスクトップは
散らかしっぱなし

事実を受け入れること、してなかった。
(きのうのブログに書いたとおりです)

そろそろ脳内ファイルを作らないといけない時期なのかな
と思いつつ
そのぐちゃぐちゃから何かを作っていく時期なのかなとも
思っていたりして

強引だったり過剰だったりヒステリックだったり、
共同幻想的だったりの「意味づけ」はちがう(危険?)
というのはこの本を読めばわかると思います。

で、事実を受け入れるまでに至ってなかった
ってことに思い至ったのですから
「科学と神秘のあいだ」を読んだことは
今の私には意味があった。


・・という
「意味づけ」を「控えめに」した私でした。

意味づけは脳味噌を疲弊させるほどの価値はない2012/01/29

ラ・カンパニー・アンメンバー写真
昨日、フランス人の作演出家、ヤン・アレグレの芝居
「雪~neiges~」をみてきました。
ヤンの以前の公演の稽古で、役者さんたちに
ヴォイス・トレーニングをさせていただいたことがあり
zabadakがパリでコンサートをしたときに
ヤンが見に来てくれたり・・
ヤンとは何年かに一度めぐりあわせる彗星のような出会いです。

ヤンの、日記のような
独白のような台本を翻訳をしたのは、
昨年フランスで出会った、若き翻訳家
オサレ王子と異名をとる平野暁人さん。
去年のパリ日記にも登場。
平野さん、てか「平野くん」がしっくりくるな。

昨日は平野くん進行でアフター・トークもあり
これがまたオオウケでした。

芝居の最後にチェーホフの言葉が引用されていました。
ちゃんと憶えてないけど
「人生の意味づけなんて意味が無いよ
それはきみのかわいそうな脳味噌を
疲弊させるほどの価値はないよ」
というような意味だったと思います。

ちょうど一年前、ある俳優さんとパリで会いました。
その後やりとりしたメールで、彼女に
「私は友人の死のあと、
もう、ものごとに意味付けをするのをやめました。
「整理する」とか「区切りをつける」とかも。」
とメールしたことを思い出していました。

私は一昨年大切な友達が自殺してから
「意味づけ」を考えるのをやめてしまった。

だから
チェーホフに
「それでいいんですよ」
って言われた気分。
(まあ、それで今頃になって混乱してる部分もあるのですが
それはこれから考えることに)


芝居のあとは青年団の役者にして翻訳者・松田弘子さん
思いがけず一年ぶりに会えた、パリから帰国中の
通訳のゆうちゃん、そして平野くん、という
翻訳家まみれのメンバーでモロッコ料理を食べて
たくさんの芝居の話。楽しかった!
(最近音楽より芝居のはなしばっか??)


昨日のブログでアップしましたが
今は3月の公演のことで
私の小さい「かわいそうな脳味噌」を忙しくしています。

これまでに脳味噌に降り積もった雪を
言葉にして出していきます。
どうか、見に来てね。

17年まえ2012/01/17

@神戸
17年前の今日のあさのことは
よく憶えている

早くに起きてテレビをつけたら
煙の上がる神戸の町の映像
しばらくして起きてきた吉良君に
「神戸が大変なことになってる」
と言った
たしか前日ケンカしてたのだった
そんなのすぐにふっとぶ

宝塚に住んでいる友人と連絡がつかず
はらはらした
(のちに蓼科の別荘にいたとわかった)

その日のあと、新宿に行ったら
デパートには
たくさんのきれいな食べ物がならんでいた
同じ国なのにへん、と思った
現実がやけに遠くに感じた


自然災害、事故、病気
知ってる人の死
知らない多くの人の死

年を重ねるごとに
悲しい記憶の記念日が増えてしまうのは
しかたのないことだろう

おなじくらい楽しい記念日がふえて
美しかった時間を
いつも思い出せるといいのに
と思う

そうしなくては、ね
生きてるから

あの日からのこと その12012/01/09

まとめて書こうと思っていて
ところどころに書き散らし
なかなか一つに書けなかったこと

私は1991年にkarakでデビューしてからずっと
プロフィールに
「自然からもらったものだけで満ち足りることの
大切さを歌いたい」
と書いてきました。
その、私の歌詩のおおもとになったことと
そして震災の、あの日からのこと、です。
うまく書けないかもしれないから
その1、にしました。


80年代後半、反原発運動がさかんでした。
「DAYS JAPAN」を始めとする雑誌では
盛んに特集が組まれ
「朝まで生テレビ」などでも
盛んに討論が繰り広げられていました。
身内が自腹で「まだ間に合うのなら」を百冊買って
友人知人に配り、「反原発自宅闘争」をしていました。
今と同じく
電力会社と政界や財界との癒着という構造を倒そうと
あちこちで反原発集会が開かれ私も何度か参加しました。

でもそこでの「運動」は
学生運動を経た方々が中心となっているような印象で
時に「三里塚」などののぼりも見受けられました。
ハチマキをし、集会の最後に拳を突き上げて
「私たちの力で原発を停めましょう、おー」
という「運動」然としたものに
私は激しく違和感を憶えました。

海外の反原発住民運動のリーダーを招いた集会でも
参加者とのディスカッションでは
長々とした自己紹介に始まり、私的な訴えばかりで
どうにも発展的とは思えない内容に
失望したこともあります。
(現在の、実際の原発被害体験を話して
知ってもらうということとは別です、顕示欲を感じました)
集会からはいつもがっかりして帰るのでした。

そして思ったことは、
私はこの思いを作品にむけるしかないな
ということでした。
やりかたはいろいろあるだろう、と。
もちろんできる限り署名したり
といった行動はしていましたよ。

karakのファーストアルバム「silent days」のテーマは
核戦争後の世界、でした。
これは当時インタヴューでも何度か言っていましたが
タルコフスキーの「ストーカー」
「サクリファイス」などの影響も大いにありました。
アルバム最後の曲「老人と船」の歌詩は
今そのまま、福島の海の出来事のようです。


先日、地元の某テレビ局勤務の友人が
震災一周年記念(?)のイベントが
目白押しだ、と暗い声で言いました。
fukushimaやフクシマ、と
アルファベットヤカタカナ表記を冠したイベントが
きっとたくさん開かれるでしょう。

Twitterでも書いたのですが、私の出身地は福島であって
fukushimaでもフクシマでもありません。
もちろん善意には違いないとは思うのですが
私はそれらには参加する気持ちにはなれません。

音楽で得たお金を福島県の災害対策本部に寄付する。
これまでと同じ姿勢で、同じ気持で誠実に作品を作る。
そしてそれを続ける。

それが私にできることです。


現在の反原発運動は80年代とは確実に違うと思います。
情報の量がまず違います。
しかし「反原発」の名のもとに
首を傾げる様な情報や動きもあり
ネットの力もあって80年代とはまた違う危なさも感じます。

はっきりしておきますけど、私は
原発反対、大反対、です。
めざせ脱原発です。

あの日
以前から原発事故の恐ろしさを
少しでも想像していた人にとっては
まさに恐れていたこと
まさか、あの最悪のケースのシナリオ通り
地震、事故・・

Macに流れるニュースに向かって
「うわあ実際に起こってしまったなんて!!」
と叫んでしまいました。
コドモ(中3)が
「どういうこと?」というので
反原発運動のことなどを話しました。

そしてコドモから
「(80年代の運動は)失敗だったってことじゃん
ちゃんとやってれば原発事故もなかったのに」
と言われたときの胸の塞がる思いは
いつまでも消えないのです。

父のこと2011/10/25

大学4年の時のこと
父はコネクションのある某大手証券会社に
私を就職させるつもりで話をつけてしまっていた。
大学の就職担当の方からも
「〇〇証券から連絡が来てますよ」と呼び出しを受けたが
「就職する気はないです」
と断った。
その頃すでにkarakの前身みたいなバンドをやっていて、
自分は音楽で食っていくのだ!!と決めていた。

卒業後のことに関して、マトモに父と話すのを避けていたが
あれは郡山に帰った時だったからお正月だったのか
東京へ帰る私を駅まで送ってくれる父の車の中で
「私は音楽をやりたい、どれだけできるかわからないけど
とりあえず一年でもいいから、やらせて欲しい」
とお願いした。
父はうっすら予想はしていたのだろうが
「わかった、でも一年ではできないかもしれないから
納得が行くまでやってみろ」
と言ってくれた。
心から嬉しかった。
なんていいこと言ってくれるんだろう、と
父を改めて尊敬した。

私が音楽一本で生活することができるようになるまでには
一年ではなく少々時間がかかることになるのだけど
デビュー前のあるとき、
やはり郡山でテレビを見ていて
虚業とかそんな話題になって
「私のやってることも世の中の
役には立ってないしね」
と父にボソっと言ったら
「お前の作った曲を聴いて、その短い間だけでも
いい気分になったり楽しんだりしてくれる人がいるんなら
それはその人の役に立ってるってことだ」
と言ってくれた。
救われたような気分になった。

その父が先日他界した。
がんがわかって約3年だから覚悟はしていたけれど
まだ父が居ない、ということがよくわからない。

でも音楽があるということは
父とともにいることなんだなと
父の言葉を何度も思い返している。

パリのベルベル人2011/01/25

23に、ひらたよーこさんと、私と
サルトルビルのプチ・コンセルバトワールの先生たちのと
コンサートがありました。

先生はベルベル人で、自分たちの固有の文化や音楽を
大事にして、また異文化との交流の機会も
大切にしているそうです。

パリと日本の音楽が融け合う
幸せなコンサートでした。
このような機会を作ってくれた
よーこさん、と先生たちに感謝。

よーこさんが詳しく書いてくれました。
http://harimoguranikki.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-7e9e.html

角野さんのこと2010/10/18

角野恵津子さんが入院されたと知ったのは
9月の末だった。
Zabadakのマネージャーの利佳ちゃんが
電話で話した時はもう病室で、
吉良くんと3人で来週お見舞いに行こうね、
と話していた矢先の10月初め
あっけなく逝ってしまわれた。

角野恵津子さんは音楽ライターで
zabadakを、吉良知彦を、
いつも応援してくれていた。
代官山の「晴れたら空に豆まいて」の
ブッキングマネージャーでもあり
お世話になっていた。

個人的にも何度もお電話いただき、
「小峰さんは作家だけじゃなくて
ソロ・ヴォーカリストとしてもっともっと活動すべきよ。
わたしはもっと小峰さんの歌をみんなに聴いて欲しいの」
と、叱咤激励してくれて
イベント企画のお誘いも何度何度ももいただいていたのに
タイミングが合わなく断ってばっかりだった。
いや、ホントはそんなことないんだ、
そんなのただの言い訳で、
そんなことも角野さんはお見通しで
歯がゆく思っていたことだろう。

代わりに、と言ってはなんだけど
ザバカラクジラや今年8月の大くじらなどの企画を
持って行った。
特に大くじらはとても喜んでいただけたみたいで
サウンドチェックの時も
会場でじっーーとこちらを見ていらした。
ライヴが終わってから
「(晴れ豆の)若いスタッフたちにも大好評で
鼻が高かったわ」と言っていただいて、嬉しかった。
でもそれっきりになってしまった。

先日代官山「晴れたら空に豆まいて」で
お別れの会があった。
懐かしい人にたくさん出会った。
音楽がつくる人の輪の
その真中に
今も角野さんがいるんだ。

今レコーディングしているzabadakの新しいアルバムを
真っ先に聞いて欲しい人のひとりだった。
きっと、見えないけどそばで聴いててくれる、
と信じている。