「科学と神秘のあいだ」意味づけをめぐる、ぐるぐる2012/01/30

科学と神秘のあいだ
物理学者・菊池誠先生の
「科学と神秘のあいだ」を読みました。

菊池先生、キクマコ先生は
難波弘之さんのSFつながりのお友だちで
大阪でzabadakがコンサートをしたときに
ご紹介いただきました。

「科学と神秘のあいだ」は、難しいことも
まるで隣にいるように話してくださっているようで
こちらは「うんうん」と
頷いてしまうよう。
これまで垣間見もしなかったような分野と
ロックなハナシが交錯する
とても面白い本なのです。

震災〜原発事故のあとに起こっている
様々な問題も予見していたかのようです。
「こーゆーのにはひっかからないよーに」
って、もう先生は言ってたじゃん!!
って。

未読の方はぜひお読みください。
(実はテルミンに興味を持ってしまう本でもある)

で、私がどきんとしたのは
昨日のブログ
http://koko.asablo.jp/blog/2012/01/29/6310662
とも関係があるのですが
「希望は持つもので、事実は受け入れるものだから」
という一文でした。

事実は受け入れるもの。

ヤンの芝居のなかの
チェーホフの言葉で勇気づけられた私でしたが
その裏で
その難しさに気がついていました。
未整理で意味づけをなしていない事実を
脳味噌、いやココロ?にあるがままにしておくこと、
それには強靭な心が必要かも。

意味づけせずに置くことと、
受け入れることってちがう。

事実を受け入れるためは
「意味づけ」や
「折り合い」や
「落としどころ」
まあ、ヒトはいろんなファイル名で
脳内に「置き場所」を作っていくのでしょう。
でも「意味づけ」を拒否した
私の脳味噌デスクトップは
散らかしっぱなし

事実を受け入れること、してなかった。
(きのうのブログに書いたとおりです)

そろそろ脳内ファイルを作らないといけない時期なのかな
と思いつつ
そのぐちゃぐちゃから何かを作っていく時期なのかなとも
思っていたりして

強引だったり過剰だったりヒステリックだったり、
共同幻想的だったりの「意味づけ」はちがう(危険?)
というのはこの本を読めばわかると思います。

で、事実を受け入れるまでに至ってなかった
ってことに思い至ったのですから
「科学と神秘のあいだ」を読んだことは
今の私には意味があった。


・・という
「意味づけ」を「控えめに」した私でした。